恵みの揺りかご
新選組屯所のほど近く。
小さいけれど良く手入れされた家には、今日も客が訪れている。
「まったくねぇ。あの黒ヒラメのガキとは思えないほど可愛いねぇ」
自分の差し出した指を握ってはきゃっきゃと笑う赤子の隣に、
だらしなく片肘枕で横たわった町人姿の男が呟く。
布団に寝かされている赤子を見つめる目は驚くほど優しい。
二人から少し離れた場所で繕い物をしていたセイは、土方並に言葉も性格も
ついでに底意地も悪いこの男が意外にも子供好きだった事に最初は驚いていた。
そういえば土方もなんのかんのと言いつつ、頻繁に顔を出しては
赤子をかまっては帰っていく。
幾度も家に通ってくる二人を見ているうちに、セイは頭の切れる人間は
こういう裏を読まずに済む相手にしか心を許せないのかもしれないと、
少し気の毒に思うようになった。
自分の夫がその手の人間じゃなくて良かったと、色んな意味で失礼な事も考えながら。
「でも浮之助さんだって、確かご側室に吾子様が何人かおいででしたよね?」
「あぁ、いるけどね。周り中に乳母だ守り役だって群がってちゃ、おちおち相手なんて
してられないの。最近は時候の挨拶に年に何度か顔を見るくらいだね」
特に何の感慨も無いまま告げられる言葉に、貴人の家庭とはそんなものなのかと
セイが眉尻を下げる。
なんだかとても淋しい気がする。
今目の前で総司と自分の赤子をあやす男の様子を見れば、自分の子に愛情を
持たないはずがないだろうに。
「だからね、このガキがいずれ元服したら、俺が名付け親になってやるからね」
何がだからなのか、と首を傾げながら次の瞬間にセイは目を剥いた。
この男はこんななりでも、れっきとした徳川御三卿一橋家の当主なのだ。
将軍家茂に極めて近い身分の殿様が、家臣でもない子供の名付け親とは有り得ない。
驚きのあまり言葉も出ないセイを置き去りに、浮之助は赤子に話しかける。
「お前にはちゃんと俺の一字をやるよ。刀だけじゃなく学問も修めたら
一橋の家臣にしてやるぜ。だから丈夫に賢く育ちな」
「ちょちょっと待ってください!」
セイが口を開く前に障子が開いて飛び込んできた男が叫ぶ。
「あ、総司様。お帰りなさいませ」
総司の後ろから静かに入ってきた男の姿を見た途端、セイの頬が嬉しそうに綻んだ。
「兄上も、いらっしゃいませ。お久しぶりですねぇ、お元気でしたか?」
にこにこと満面の笑みで斎藤に話しかけるセイの様子を見て「俺が来た時は
迷惑そうだったのに、随分な違いじゃないか」と浮之助がぶつぶつ言っている。
帰宅の挨拶もそこそこに総司が浮之助に噛みついた。
「あのですね、浮之助さん! この子は大きくなったら新選組に入るんです。
それに元服してからの名ももう決まっているんですっ!」
始めの頃こそ浮之助の身分に多少の遠慮を感じて我侭を聞く事も多かった総司だが、
事ある毎に顔を出してはセイや赤子を独占していく姿に、最近は言いたい事を
言うようになっていた。
「ほぉ、俺の名を蹴るほどの名かい。聞きたいねぇ、その立派な名を」
ふふん、鼻先で笑い飛ばすように顎をしゃくる。
「そ、“総三郎”ですっ。だから幼名は近藤先生の昔の名から一字を頂いて“祐太”としたんです。
本当は元服の時の名付け親になって頂くべきですけど、どうしても総三郎にしたかったので」
「なるほどねぇ。父と母の名を合わせるってかい。確かに悪くはないけどねぇ。
俺も譲りたくないなぁ」
赤子の頬をぷにぷにと突きながら浮之助も譲らない。
しばらくぎゃんぎゃんと言い合いを続ける二人の間に、落ち着いた声が投げ込まれた。
「会津の肥後守様も、いずれは名を与えようかと申されておいででしたが・・・」
同時に声の主を振り返った総司と浮之助の視線の先には、セイに出された酒肴を前に
悠然と猪口を手にする斎藤の姿。
総司は「いつの間に」と呟きながら男達の騒ぎもそのままで、もてなしの準備をすっかり整えた
セイの手際の良さに我が妻ながら感心しつつも、自分より先に亭主然としている斎藤の姿に
どこか悔しいものを感じて唇を尖らせた。
「そんな話は初耳ですよ、斎藤さん」
「あぁ。俺を差し置いて肥後は良い度胸だな」
こちらもどこか不機嫌そうな浮之助が続く。
そんな二人を眺めながら酒を口に含んだ斎藤は表情を欠片も崩さない。
「沖田さん夫婦の事は良くご存知のようですからな。何しろ二人が無事に夫婦となれたのも
肥後守様や一橋公のおかげですし。気にかけておられるのでしょう」
そう。
総司とセイが夫婦として穏やかに暮らせるようになったのは、
確かに会津藩主松平容保と一橋公徳川慶喜の助力が大きかったのだ。
新選組隊士だったセイに懸想した挙句、しつこくその身をつけ回し、周辺や過去を嗅ぎ回った
ある隊士が遂にセイが女子である事を探り当てた。
その事実を盾に自分の物にしようと卑怯にも脅しをかけた文が、様々な偶然を経て
土方の手元に届き、全てが露見。
その卑怯な隊士は士道不覚悟と断じられ。
セイも同様の処分を受けるかと覚悟をしていた所に、知らせが届いた。
一橋公と会津公がそれぞれ使者を送ってきたのだ。
その使者は総司とセイの祝言を喜ぶそれぞれの主君からの文を携え、
祝いの品を下げ渡すから局長副長同道の上、総司が取りにくるよう言い置いて
帰っていった。
目を白黒させる近藤と土方を余所に、総司と斎藤が目を見交わして頷き合う。
未だ互いに想いを伝えてはいなかったが、総司とセイが相手を想う気持ちなど
二人を知るものなら誰もが気づく事であり、斎藤はそんなふたりを
僅かばかりの寂寥と共に見守っていたのだ。
故に今度の事でセイに切腹を言い渡すと土方が処分を決めようとした時、
それぞれが動いた。
斎藤は本来の主君である会津公の下に走り、事情を説明して助力を乞うた。
容保にしても池田屋の阿修羅の話は聞いていたし、土方の使いとして
度々黒谷の会津本陣を訪れる小柄な隊士が、その礼儀正しさや明るさ誠実さを
会津藩士からも愛でられている事を知っていた。
容保自身、近藤の供で来たらしい総司とセイの会話を庭で偶然聞いて好感を持ち、
それ以来斎藤に名指しで二人の近況を聞く事もあったほどだ。
そんな二人を守れるものなら守ってやりたいと、新選組設立の大恩人であり
その後も永きに渡って後ろ盾となり大金主であり続けた人物が動いた。
その思いの中に、いずれ夫婦となった二人を呼びつけてからかってやろうという
容保の悪戯心が含まれていた事は、斎藤だけが知っている。
総司はたまたま京に来ていた松本良順の下に駆け込み、二条城に逗留している
一橋慶喜を動かす事を頼んだ。
事情を聞いた松本は元々セイの味方だった事もあり、一橋公と総司達に
面識があった事に驚きながらもふたつ返事で了承し登城した。
セイを救う為には絶大な庇護者が必要だった。
新選組の鉄の掟はたとえ局長と言えど覆す事はできない。
傾倒している松本の口添えがあれば近藤は心を動かすだろう。
女子の身で男も逃げ出す厳しい隊務をこなし、いくつもの武勲を挙げてきたセイだ。
それに対する褒美代わりともいう形で、穏やかに離隊させる事も考えてくれよう。
けれど土方は、それでは動かない。
鉄の掟の番人はたとえ相手が女子でも、身分詐称という一点を盾に士道不覚悟の
断を覆そうとはしないだろう。
セイが女子である以上“士道”という言葉は無効だと、苦しい言い抜けを考えもしたが、
それは他の誰でもないセイ自身が納得しない。
そんな形で命を永らえるくらいなら、間違いなくあの娘は腹を切る。
セイを守る為には、土方を説得するしか総司に道は残っておらず。
土方の決定を押さえ込むには、セイを処断すれば新選組にとって大きな不利になるという
厳然たる事実が必要となった。
それが一橋公、徳川慶喜だった。
徳川御三卿一橋家当主であり、将軍家茂の後見であり、朝廷から禁裏御守衛総督に
任じられている人物だ。
幸いにも以前将軍家茂の東帰騒ぎの折、伏見で慶喜とセイに面識ができた事を
その場に居た近藤が知っている。
その貴人がセイに「女子ながらあっぱれ」とでも人伝であれ伝えてくれれば、
いかな土方と言えど軽々にセイの処分をする事は出来なくなる。
女子であろうと将軍に準ずる人間に働きを認められたのであれば、
それを士道不覚悟と断ずることはできない。
佐幕であり勤皇でもある新選組が、そのどちらにも力を持つ慶喜の不興を買う事など
後々の事を考えれば出来るはずもない。
そして慶喜はセイを気に入っているのだ。
セイが女子である事は知らぬまでも、前向きに誠実に不器用なほど真っ直ぐに
生きている事を見ており、その気性と人柄を愛おしんでいた。
ならばこそ、セイを見殺しにするとも思えなかった。
日頃滅多に動かすことの無い頭を必死に動かした総司の手は見事に当たり、
土方といえど逆らう事の許されない人物が動いた。
けれどそれが総司とセイの祝言にまで雪崩れ込むとは当人達は予想もせず、
現実についていけないうちに会津公と一橋公からの祝儀の品が下賜され、
兵は拙速を尊ぶという理由ではあるまいが、バタバタと祝言が執り行われ、
気づいたときにはこの家に夫婦として放り込まれていた。
一連の騒動を最も他人事のように遠く感じていたのはセイだったかもしれない。
「はぁ、考えてみれば確かに肥後守様と浮之助さんには大恩がありますねぇ」
セイが当時を思い出して遠い目をする。
「それはそうですけど、あの時は私だって胸の潰れる思いをしたんですよ?」
総司は眉間に皺を寄せた。
新選組の物事に対する素早さを知らない殿様達は、慶事に関わる知らせは
夕より朝が相応しいという思いから、双方とも斎藤と総司に乞われた翌日に
祝いの使者を差し向けた。
既に翌朝には処断が言い渡される事を知っていた総司達は、焦燥に苛まれ
眠れぬ一夜を過ごす事になったのだ。
しかも隊士の多くと幹部のほとんどが、処断が切腹と決まったのなら
無理やりにでもセイをどこかに逃がそうと画策してもいて。
下される処分が如何なるものであろうと、ただ静かに受け入れる覚悟を決めて
謹慎しているセイと、いつもと変わらぬ不機嫌そうな土方を遠目に見ながら、
いざとなれば土方を縛り上げ蔵に押し込めセイを引き摺ってでも助けるのだ、と
そこここでその方策が話し合われていた。
けれど土方を裏切る事など出来ない総司は、まさに忠義と愛情に引き裂かれる
寸前となっていた。
結果的には処断が言い渡される直前に使者の来訪が告げられたのだが、
総司にしてみれば暢気な殿様達に手放しで感謝する気にはなれない。
「名をつけていただけば良いじゃないか、沖田さん」
相変わらず赤子の相手をしている浮之助を見ながら、再び斎藤が口を開き話を戻す。
「字(あざな)は総三郎として、諱(いみな)を頂けばいい。
一橋公と肥後守様の御名だ。字として軽々と使えるものでもあるまい」
「その手がありましたか。やっぱり斎藤さんはすごいなぁ」
目を輝かせて総司が賞賛する。
「嫌だねぇ、地蔵は。俺が言おうと思ってた事を先に言うなんてねぇ。
少しは可愛気ってものを、このガキから教わったらどうなの?」
斎藤の言葉に不満そうにしながらも、浮之助の目は笑っている。
「こんな赤子のうちに名を決めるなんざ野暮かもしれないけどね。
早々に決めておかないと、今度は松本あたりが名付け親になると名乗りを
挙げかねないからね」
「それも有りそうですねぇ」
苦笑しながら頷く総司に、セイと斎藤もあの垂れ目でセイを娘同様に溺愛する
型破りな幕府御典医の顔を思い浮かべる。
「“沖田総三郎、藤原喜保(のぶもり)”。そのまんまの組み合わせで面白味もないけどね。
これだったら肥後も納得するんじゃないの?」
浮之助の言葉に三人は、のぶもりのぶもりと口の中で繰り返す。
本来は親か主君しか呼ぶ事の許されない名であるけれど、総司とセイの子であれば、
近藤や土方を始め斎藤松本など親であり身内の気でいる者達が、
時には呼ぶ事を許されるのだろう。
「肥後守様におかれましても、さぞや満足なさるかと」
斎藤の静かな声に浮之助が鷹揚に頷いた。
「幸せな子ですよね」
セイがポツリと呟く。
「浮之助さんも肥後守様もご自分達の御家中の子でもないのに、この子の未来を思って
庇護を与えようとしてくださるんですもの」
言葉の途中から涙声になったセイに、総司が寄り添いその身を包む。
自分の名の一部を与えるという事は主君が家臣への褒美とする場合がほとんどで、
元服の際に名を下される事は我が子とも思うという意思表示。
内外に対して絶対の庇護の宣言でもあるのだ。
元々は藩士の子であったとしても、自身は浪人に過ぎなかった総司の子に対して
破格すぎる扱いと言うしかない。
それも何らかの突出した働きに対する褒美や打算からでは無く、純粋な好意からなのだから
セイにしてみれば有り難くて涙が止まらなくなる。
「本当に幸せな子です・・・」
繰り返されたセイの言葉に男達が微笑んだ。
しばらくして、ようやく泣き止んだセイが酌をしながら斎藤に尋ねた。
「そういえば、兄上は何かご用事があって、いらしたのですか?」
セイの言葉に「あぁ」と思い出したように総司と視線を合わせた斎藤が答える。
「来月の事だ。俺も警護を兼ねて同行する事になったんでな」
簡単に打ち合わせておこうと足を運んだ、と続ける。
「来月ってのは、何かあるのかい?」
興味深そうに聞いてくる浮之助の膝の上には赤子が眠っている。
これでは誰の子かわからないじゃないか、と文句の一つも言いたくなる総司だったが、
これもいつもの事なので言葉にする事は無く口をへの字に曲げている。
代わりにセイが答えた。
「江戸に参る予定です。こちらでばたばたと祝言を挙げてしまい、そのまま多忙の内に
この子が出来てしまったので、沖田の家にご挨拶もまだなのです。
総司様の姉上様にご報告して、局長副長のお身内がいらっしゃる日野にも
お邪魔しようと思いまして」
「この子も来月で生まれて一年、二つになりますしね。多少の長旅も大丈夫だろうと」
総司が続けた。
「しかし新選組一番隊組長の沖田が妻子を連れての長旅ともなれば、
どこで誰が狙ってこぬとも限らん。かといって私用の東帰に警護の隊士を
ぞろぞろ連れて行くわけにもいかぬだろう。だから俺が同行する事になった」
セイに向けた斎藤の言葉に総司が頷いている。
「ふぅん・・・」
何か考えるように浮之助が眠る赤子の髪を撫でる。
それを見ながら、確かに道中の安全を考えれば斎藤が同行してくれる事は
ありがたいとセイは思う。
並みの女子に比べれば剣に対する恐れは無い。
いざとなれば自分も戦う覚悟もある。
けれど女子に戻り総司の妻となった時から碌な稽古もしていない自分に、
どれほどの力が残っているのかは判らない。
まして赤子を抱えていては、全ての負担が総司一人にかかってしまうのは間違いない。
本当に斎藤が同行してくれるならば、これ以上に心強い事は無いと思う。
恐らく近藤達もそれを見越して幹部が二人も隊を離れる事を許してくれたのだろう。
つくづく彼らは総司にもこの赤子にも甘いものだと口元が緩む。
けれどセイは最もこの赤子に甘い男を失念していた。
「うん。じゃあさ、一緒に帰ろうよ」
「は?」
浮之助の唐突な言葉に三人が首を傾げる。
「俺も来月江戸に帰るよ。そろそろ京にも飽きたしね。きっと家茂も遊んでもらえなくて
寂しがってるだろうし」
本人が聞いたなら盛大に首を横に振るだろう事をさらりと告げた。
「とんでもないっ! 一橋公の東帰の行列になんてご一緒できませんよ。
こっちは赤子連れなんですよ?」
慌ててセイが反論するが、浮之助は口元を歪めて答える。
「大名行列なんかで帰るものかい、うっとおしい。大阪から船で戻るよ。
街道を行くより日数も短いし危険も少ない。何かあってもうちの奴等が
盾くらいにはなるからさ。そうだね・・・おい、地蔵」
何かを思いついて斎藤へ声をかける。
「アンタ、肥後に言ってさ、家茂にご機嫌伺いの文でも書かせなよ。
新選組の幹部が肥後の私的な使いで東帰する。肥後の依頼ゆえ、
同じく江戸に戻る一橋の船に乗せる事にいささかの問題も無い。
・・・こういう事でどうだい?」
唖然とする総司と斎藤を捨て置いて、ちょっと待て、とセイは思った。
懇意にしているとはいえ、たかが新選組幹部の夫婦とその子の為に
自身の東帰を決め、会津公に将軍家茂への文を書かせ、
その上一橋家の名で仕立てた船で江戸まで送ると言うのか。
己を守る一橋家臣団を赤子の盾にする気満々で?
「な、何を考えてるんですかっ、あんたはっ!!」
久々にセイの怒声が響き渡る。
赤子が泣き出し、それを浮之助が腕の中で揺らし笑う。
総司と斎藤が苦笑しながら口元に猪口を運んだ。
喧騒の中、今日も総司の小さな家はセイを中心に優しい想いに包まれていた。